元禄14年3月14日(西暦1701年4月21日)。
として殿中刃傷に及ぶが、
討ち漏らして切腹処分となった。
その後、
浅野の遺臣である大石内蔵助良雄
以下赤穂浪士47士が
翌15年12月14日(1703年1月30日)に
吉良屋敷に討ち入り。
主君に代わって吉良上野介を討ち果たした。
墓前に首を捧げたのち、幕命により切腹した。
私の父は毎年、年末になると
「忠臣蔵」をテレビに張りついて
見ていたなぁ。
毎年12月14日、
上野・五條天神社では、
義士を偲ぶ「討入射会」が
行われているのだって。
あ、よく見たら看板の下に書いてあった(^^;
そうかぁ、そうきたか。
弓道は、
Hopeが憧れて短い期間だったけど
部活動してた。
文化祭での袴姿、かっこよかったなぁ。
それから、
神社に保存されている赤穂義士の
遺品が展示される、との事。
なんで、ここに遺品があるのか
なんで、ここで偲ぶのか、
追いかけるぞ。
・・・
浅野家は赤穂藩主になる前、
25年にわたり笠間藩主として
笠間の地を治めていたんだって。
正保2年(1645)6月、
赤穂への転封が命じられた。
初代・浅野長直公、
2代・長友公、
3代・長矩公。
そして三代目が事件を起こした。
主君に忠義を尽くした義士3名は
笠間藩出身者であったそうだ。
おぉ、笠間ーッ
繋がってきたぞ。
・・・
それから
赤穂浅野家は、
代々消防に力を入れていた、という
記事を見つけた!
初代の浅野長直は
防火・消火の研究に熱心で
日頃から消防訓練をかかさず
江戸消防に従事していて
火災現場でも自ら家屋に飛び乗ったとあった。
孫の長矩も、
江戸在留中の元禄4年(1691年)に
本所[東京都墨田区の一地区]の
火消大名に任命される。
元禄11年(1698年)、
江戸の大火で吉良上野介の邸が全焼。
この時、長矩が指揮をとっていた。
これが禍根となって
刃傷事件に繋がっていくのでは、
という説もあるようだ。
なるほど。
【江戸の火災】、繋がった!
・・・
討入り決行直前に
大石内蔵助 以下10名ほどの浪士が、
川崎市の平間村に滞在した。
江戸に向かう際、10日ほど滞在、
江戸の情勢を見極めたのち江戸に入ったらしい。
討ち入りの前日に大石内蔵助が記した書状が
展示されているって。
その書状の文末には
「阿州へも可然御通達奉頼候
(阿波の人々へも、よろしくお知らせを
お願いいたします)。」
・・・
阿波の侍たち、回船問屋などの協力者や
支援者を指すと考えられていて
大石から依頼を受けた阿波の人達が
討ち入りに使う武器や武具などを運んで
支援していたのではないか
と考える説もあるようだ。
・・・阿波洲神社を調べたから
阿洲にもすぐ反応出来た。
阿波にも繋がった❗️
そしてね、
ガードが堅固な五條天神社。
阿波に繋がった事で
という
てんこ盛り盛りな住所に行き着いた。(゚ω゚)
この辺りには
天神社、天満神社が多いのだって。
地図で確認。うん、確かに。
どうやら・・・
ここ辺りの神様は、京都の五條天神宮に
繋がるんじゃないか、の記事も見た。
この住所の周りで何か気になる
場所、エネルギーがあるはずだ!
地図で探す。。。
で、
徳島県の南東に位置する
第21番札所の太龍寺は、
(こくうぞうぐもんじほう)を修行した地、
を見つけた。
空海は、
そして「明星、来影す」と記した。
うーむ。
バッチリ繋がった!には
まだだけど・・・
いい線になってる気がする。
…
それと。
斬られた側の
吉良 上野介。
名前に「上野」が入ってる。
上野は、
と呼ばれていた。現在の群馬県。
下野は、
と呼ばれていた。現在の栃木県。
吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしなか)の
官位は「上野介」で、
上野国の次官を意味する。
だ、そうだ。
…
先日
追いかけているキーワードと道筋は
〈あってる〉❗️と確信した。
それは
キラとウエノという響きが
今2025年4月現在
見ているアニメに出てきたからだ。
私が今、上野山を調べ、
ブログを書いている
このタイミングで、だ!
アニメを見ながら
ギョッとした事はまだ、ある。
そのアニメは、
「小市民」。
…
上野山を調べていて、いろんな
”ウエノ”に出会っています。
(`_´)ゞ