〈忍ヶ岡〉
武蔵野(山手)台地最東端に当たる
上野山およびその周辺を指す。
〈上野〉の由来
小野篁は一時、現在の群馬から
一部栃木にまたがる
「上野国(こうずけのくに)」に赴任していた。
上野国から京都へ帰る途中に
しばらく現在の上野の山に滞在したことから
「上野」という呼び名がついた説。
江戸時代初期に
伊賀上野を領していた
藤堂氏の武家屋敷があったため
上野の地名がついた説。
又、
藤堂氏の城があった伊賀上野の
小高い山と上野の山の地形が
似ていたことから、
「上野」と呼ばれるようになった
という説。
小野篁、
上野のエネルギー廻ってる?
藤堂?伊賀?・・・
(エースをねらえ!や、忍者か?)
とHappy脳内は変換する。
面白い!!(*´◒`*)
今度は、何に繋がるんだろう。
・・・
上野山は、
伊賀流忍者の発祥の地。
交流イベントが開催するくらい
繋がりがあるんだと思うと
忍岡って・・・忍びの岡。
次は忍者だ〜(≧∀≦)
Hopeも大好きだった忍者屋敷。
戸隠の忍者の里でハッスルしてた。
楽しかったなぁ。
・・・
伊賀といえば甲賀と並ぶ〈忍者の里〉。
戦国時代、
伊賀忍者はスパイとして活躍していた。
「本能寺の変」の時は結束して、
有名なエピソード・「伊賀越え」。
このことを恩儀に感じていた家康は、
江戸時代に入ると伊賀忍者を
まとめて江戸に呼んで幕府に召し抱えた。
「公儀隠密(こうぎおんみつ)」
としたのだって。
東京の「半蔵門」は
伊賀から江戸に移り住んだ
忍者・服部半蔵にちなんだものだって。
知らなかった(^◇^;)
それからびっくりは続く。
父親は忍者と関係が深い
無足人という名字帯刀を許された
準士分の上層農民。
母親は伊賀の三大上忍の一人である
「百地氏」の家系。
・・・
よくは分からないけど
両親共に、忍者にゆかりなんだね(°_°)
13歳で父がなくなった芭蕉は、
伊賀国上野の侍大将・藤堂良清の家に
奉公に出せれ、嫡男・良忠に
仕えることになった。
良忠に仕えていたが
芭蕉の実際の仕事は台所要員(厨房役・料理人)
で、隠密のような仕事ではなかった。
でも
藤堂家は服部半蔵とつながる家柄なんだそうで
当主・良清は忍術の免許を
持っていたとされている。
つまり!
芭蕉の身近には
忍者ゆかりの者たちが
大勢いた、という所から
松尾芭蕉は、
ただの俳句の旅をしていた人
ではないらしい!?って記事が
沢山出てきた(๑˃̵ᴗ˂̵)
もしかしたら
「奥の細道」は
情報収集の任務を
しながらだったかも??
☆*:.。. o(≧▽≦)o .。.:*☆
で、気になった人を発見!
【そら】・・・出た・・・❗️
曾良は
神道や地理、全国の神社仏閣に詳しく、
几帳面で芭蕉の優秀な秘書的役割をした。
そして
曾良の忍者説もあるんだとか。
・・・
河合曽良
富裕な商家である高野七郎兵衛と
母河西氏の長男として生まれた。
【諏訪】に【高野】・・・❗️
両親、養父母を相次いでなくし
三重県の伊勢長島の伯父の家に身を寄せ
【河合惣五郎】と名乗って長島藩に仕えた。
話もするんだけど、惣五郎にドッキリ。)
伊勢長島の地が
俳号を「曽良」としたと云われている。
1710年・宝永7年(1710)、
幕府より巡見使随員を命じられた曽良は
〈壱岐島〉に上陸後、病に倒れ
〈5月【22】日❗️〉に息を引き取った。
曽良も22繋がりの1人だ❗️
河合曽良は
占いの能力もあり、剣術にも長けていたらしい。
う、占いですか???…
追いかけるエネルギーは
あちらこちらから
・・・謎の不思議臭・・・が漂う・・・
さらに 壱岐島。
長崎県にある、
古代から交通の要所として栄えた壱岐島。
150以上の神社が点在し、
祠を含めると千を超える!
神々が集まる神秘的な地だって!
こんな場所まで私の道は
進んだんだ。
何だろう、
エネルギーが集まって
そのエネルギーがドアを
ジワジワこじ開けていく感じ、、、
・・・
最後に一言。
河合 曽良
かわい そら
可愛い ソラ♡じゃん(*´꒳`*)
ウチのソラに毎日毎日言ってるので
すぐに脳内変換されてしまいました。
( T_T)\(u_u)
すみません…m(__)m⭐︎