曹洞宗といえば・・・
諏訪山吉祥寺/旃檀林!
江戸時代の曹洞宗の学寮
「旃檀林」が起源。
日本曹洞宗の開祖。
中国(宋)から帰国後、永平寺を創建。
道元の教えは、
座禅と悟りは一体であるとする
「修証一如」が中心で、
厳格な禅の修行を重視した。
"栴"檀林は、
仏教において、僧侶が集まって学問をする場所。
江戸時代に曹洞宗の学寮として設立された
「旃檀林」は、多くの僧侶を輩出した。
この旃檀林を起源として、
明治時代には曹洞宗大学林専門本校
(のちの駒澤大学)が設立された。
・・・
永平寺を建てて・・・
本山が永平寺で・・・?
永平寺は、
年末に放映される「ゆく年くる年」という
NHKの番組の寺のイメージが私はあるんだ。
でも、永平寺だけでなくて全国各地の除夜の鐘を
紹介してるんだね σ(^_^;)
そして
鶴見の總持寺も本山で
で…祖院・元々の寺が、能登にある。
うーん、
もう一回、整理しよう(*_*)
曹洞宗とは、
1226(嘉禄2)年に帰国した
道元禅師の「教え」を後に〈体系化〉したもの。
1244(寛元2)年、
永平寺を建立。
道元は、「○○宗」といった宗派名を
立てることを嫌っていて
当初は、宗派の呼称は無かったらしい。
道元禅師から数えて4代目にあたる
瑩山紹瑾(けいざんじょうきん)禅師が
1321(元亨元)年、
石川県にあった諸嶽寺を
諸嶽山總持寺と改めて
教団としての〈曹洞宗を確立〉し、
飛躍的に発展させた。
諸嶽寺(諸嶽観音堂)は
元は諸岳寺(もろおかじ)と
呼ばれた行基創建と伝えられる
1321年(元亨元年)に
当時の住持である定賢が霊夢を見て、
越中国永光寺にいた瑩山紹瑾に寺を譲った。
瑩山紹瑾はこれを禅林として改め、
1322年(元亨2年)後醍醐天皇より認められて
1615年(元和元年)徳川幕府より法度が出され、
1898年(明治31年)火災で焼失。
火災に遭ったのを機に、
交通の便が良い関東の候補地を検討して
1911年(明治44年)
神奈川県横浜市鶴見区鶴見二丁目の
現在地に移転。
總持寺祖院と改称された。
そうすると、
江戸時代の曹洞宗の学寮
「旃檀林」は駒込の諏訪山吉祥寺に
置かれていたんだから、
それもあったから、能登から鶴見に
移転してきたってことかな???
なるほど〜?
少しは整理された、かな?(^◇^;)
總持寺は・・・
仏教の研究と漢学の振興と
それらの人材供給を目的とした
旃檀林も近くなって?
教えが一気に広がりそう。
鶴見の總持寺は、盆踊りに行った事が
あるんだけど、相当に面白い、
普通じゃない盆踊りの思い出があるんだ。
" 一休さん " の盆踊りは、
櫓の修行僧と一体になるような
ライブみたいな盛り上がりで
高揚感ハンパなかったけど
コロナを挟んで今はどうなんだろうか。
あの、五百羅漢の【小山田城跡】の
町田市上小山田町の泉が源流で
横浜市鶴見区の河口から
東京湾に注いでいる。
そして
空海の教えの寺だったってことかな?
元々は、○○宗の寺って良くあるのかな。
なんか気になるな。
2007(平成19)年3月にも
地震で大きな被害を受けた。
修復工事を終えたばかりで
今回の被災となってしまった。
そして
「白山祭 10月2日
山内に白山社という、白山妙理大権現を
白山から請拝し、お奉りした社があります。
(権現とは、仏菩薩さまが権(かり)に神として
現れること)
この社の前で権現さまをおまつりするのが、
白山祭です。
もともと、神さまを御祭りするわけですから、
神主さんに来ていただき、
神仏混合で行われます。
どうして、この神さまをお奉りするかというと、
次のような故事に由来します。
道元禅師が留学先の宋から帰朝される前夜に、
この権現を感得して、
『碧厳録』の筆写を手伝い、
一夜のうちに全てを書き写した、
とされています。
こういうわけで、曹洞宗では、
白山妙理大権現 をお祀りするのです。」
なるほど!祖院は
白山の神様がお祀りされている寺なんだ!!
道元禅師は白山を信仰し禅を広めた。
白山信仰といえば 石川県の白山比咩神社。
全国に2,000社以上ある白山神社の総本社だ。
白山比咩神社を調べて、Wikipediaにも
社に伝わる神書を書写した。
とあるから
中国の仏教書を筆写して、
帰国後、神書も書写したってことなのかな。
瑩山禅師も「白山の氏子」と
名乗っていたそうだ。
そうして
曹洞宗では白山妙理大権現を
安置している寺が多く
修行に出る僧侶は原則的に
<白山妙理大権現>などと書かれた
龍天軸を所持して守り本尊としているのだって。
関わりが深いんだと分かってきた。