瑠璃色の空と海

~HappyとLuckyのふたりごと~

平泉〜平泉と、白山

平泉寺白山神社

 

" ヘイセンジ " 、と読む…(^◇^;)

 

 

717年

白山を開山するにあたり登り口として

泰澄大師によって開かれた。

 

泰澄大師が山頂を目指す途中で見つけた

池のほとりで祈っていると、

白山の女神が現れたと伝わる。

 

この池が、平泉寺の始まりの場所と

されているのだって。

 

最盛期の戦国時代には

僧兵が8千人、僧坊が6千いたと伝えられ、

平安後期には天台宗比叡山延暦寺

末寺として発展。

 

最大規模の宗教都市となり

白山信仰の拠点として繁栄した。

 

ふむふむ。

そして、「義経記」には

 

京都から脱出した義経一行は

奥州平泉を目指す途中で

平泉寺に立ち寄り、

観音堂で一泊したとしている。

 

奥様連れの義経

「平泉寺に寄りたい!」

と言いって、弁慶や家臣は冷や冷やしながらも

無理矢理一泊したのだって。

 

 

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白山周辺や平泉寺には、

奥州藤原氏にまつわる

記録や伝説が残るっているらしい。

 

藤原秀衡

白山の山頂に5尺(約15m)の仏像を

寄進した、とか

白山権現本地仏2体の鋳造を

石徹白と平泉寺に安置して

それぞれ小浜神殿を造営した、とか。

 

 

文治元年(1185)の平家滅亡後、

全国の覇権を手に入れようとする

源頼朝の最後の標的は奥州藤原氏だった。

 

三代目秀衡は、

名馬や黄金を朝廷にたびたび献上して

東北の安泰を願っていたらしい。

 

同時に多くの最新情報も得ていたようだ。

 

当時、奥州平泉と京都を結ぶルートは3つ。

 

日本海ルート

・太平洋沿岸ルート

・内陸を通るルート

 

勝山市教育委員会 史蹟整備課  平泉寺かわら版より

 

 

頼朝の影響下にある太平洋沿岸ルートは

まあ、利用できないか、利用しにくいのかな?

 

その頃、

日本海沿岸地域から都に入るルートは、

敦賀湊や小浜湊経由であったらしい。

 

秀衡は日本海沿岸ルートを確保するために、

北陸の日本海側や北陸道

大きな影響力をもっていた

平泉寺を含む白山勢力に仏像等を

寄進した、と考えられるらしい。

 

そして

このルートを通って、

義経と弁慶一行が

奥州平泉に下っていった、と。

 

 

そうなら、

能登義経の船隠しの伝説の場所は

平泉と平泉を結ぶ場所だったんだなぁと

当時の義経一行の足取りを頭で追いかけて

しみじみ思った。

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そして、どうやら

奥州平泉の語源は

この平泉寺から来ている、らしい。

 

 

" 争いのない平和な国にする " ことを願い

建立した平泉の中尊寺

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中尊寺の境内を過ぎて

最奥に進むと白山神社がある。 

 

慈覚大師円仁が【白山比咩神社】を

勧請して創建した

 

平泉の鎮守社。

 

 

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…それから…

白山を開山した【泰澄】って…

聞いたこと、あったような…

 

そうそう、

役行者愛宕山に登り、

山頂に社を建立していた人だった。

( ̄▽ ̄;)

 

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もうね

愛宕神社も、白山神社

沢山沢山行きたい所だらけだよ

(*´◒`*)