瑠璃色の空と海

~HappyとLuckyのふたりごと~

上野山⓪摺鉢山 蛇塚 

江戸という名前は

アイヌの言葉で「えと」で

「岬」という意味。

 

 

古代、縄文時代にまで遡ると

上野の山周辺は海で、

江戸時代初期でも湿地が広がっていた。

 

利根川、荒川、石神井川など

いろいろな川の終着点は東京湾

 

水上の物流交通拠点として江戸に

目をつけた家康公。

 

江戸の町を人が住みやすい場所に作り替えた。

 

・・・

 

摺鉢山(すりばちやま)は、

忍ヶ岡とも呼ばれる上野台地にある

上野恩賜公園の、ほぼ中央にある小さい丘。

 

古墳時代につくられたといわれる

前方後円墳の摺鉢山古墳らしい。

 

近年、上野の山も「古墳群」と

名づけられるほど、

大型古墳が密集して築造された

エリアだったことがわかってきた、と。

 

上野公園一帯を上野山と呼ばれる。

 

 

文明年間(1469-1487)には、

山頂に五条天神があったことから

天神山とも呼ばれていたようだ。

 

・・・

 

寛永2年(1625)3代将軍家光の時に

天海僧正が東の比叡山と言う意味の

東叡山寛永寺をこの地に建立して、

徳川家の菩提寺とした。

 

上野の山に開かれた寛永寺

江戸時代には約30万坪の広さで、

東京ドームでいうと21個分あった。

 

寛永8年(1631)には、

摺鉢山の上に清水観音堂が建立された。

(その後、清水観音堂は元禄7年に現在地に移築)

 

 

 

 

都立上野恩賜公園案内図東京都公園協会発行)

 

・・・

 

「蛇塚古墳」は、

現在の「東京都美術館」の敷地内に

所在したと考えられている古墳。

 

 

東京都台東区より発行された

台東区史 通史編Ⅰ」には

次のように記されているらしい。

 

 第三号墳(蛇塚古墳)
 『江戸名所図会』「寛永寺」の図中の

 「二本杉」の前方「弁天」社などを

 のせている高まりが本墳の位置と推定され、

 現在は東京都美術館となっている。

 都立美術館の前身、

 東京府美術館の南に接して

 「二本杉原運動場」があったが、

 その運動場と美術館の中間に

 「蛇塚」と俗称されていたところがあった。

 そこには複数の大石がおかれ、

 周囲より一段と高まりを見せていた。

 大石が古墳の主体部用材か判断することが

 できなかったが、付近より内面に

 青海波文のみられる須恵器片が採集されていた。

 現都立美術館の建築に伴って

 「蛇塚」はとり壊され、

 大石の所在は不明になった。

 本墳の北側には第四号墳の所在地である

 東京国立博物館があるので

 同一グループの古墳と推定される。

 なお、明治時代の地形図に

 その位置が記録されている。

(『台東区史 通史編Ⅰ』74〜76ページ)

 

現在この「蛇塚古墳」の痕跡を

見ることはできないけれど、

直刀その他の副葬品等の遺物が出土していて、

6世紀代のものであるとされているんだって。

 

 

寛永寺の境内であった上野山の中核エリアは、

明治政府の廃仏毀釈により、平坦に整地された。

 

今は、広場と大噴水のある

「竹の台広場」となっている。

 

・・・

 

もしかしたら

大規模な古墳が、

大きなエネルギーが、

ある場所なのかな、って思うと

今までの私の中の上野の記憶が

ざわめき出して

意味を持ち始めたように感じるんだ。

 

・・・

 

その一つ。

 

確かこの東京都美術館には

亡くなった私の母が何かの展覧会に

作品をよく展示していた。

搬入搬出する手伝いをする為に、

私もよく上野に行った。

 

癌になり、出展する最後の展覧会で

展示物を搬出して帰る時の母の横顔。

 

電車の中で、静かに涙が流れているのを

黙って私は見ていたっけ・・・

 

 

・・・上野かぁ。

 

この、

「ウエノ」の響き。

ある場所にも繋がる事が

今、判明したけど

それは、またその時に。